そうこうしているうちにだんだんやっぱり利用者の方が増えてきました。今は社会福祉法人としてグループホームってわらしべ舎でやってるんですが、グループホームというのは親がいなくなった後もそこで障がい者の方が一生暮らすところなんです。親なき後を想定して運営するのがグループホームなんですけども、今はNPO法人とか一般財団法人なんかもグループホームは運営できるんですけれども、当時は社会福祉法人でないと運営ができなかったのです。やっぱり10年も経てば親も10歳歳をとるし、子どもも10歳歳をとるし。やっぱり先のことを考えるようになって、そして「では社会福祉法人をとらないと運営できないよね」っていうことになって、社会福祉法人を作ろうという、社会福祉法人格っていうことになってきたんです。
でも社会福祉法人になるためにはいろんなハードルがいっぱいあって。もちろん書類作りもそうですけど、一番のハードルはお金でしたね。「自己資金」という自分たちが持ってなきゃいけないお金があって、それに建築とか土地とかいろいろハードルがいっぱいあって。仙台市に相談したら仙台市が「じゃ土地は貸しましょう。あと社会福祉法人に本当になるだけの、その資金とか役員とかそういう構成が決まったら仙台市とそれから国から補助金を出します。」という話になりました。
他の社会福祉法人のをいろいろを参考にさせてもらったら、結構家族からの寄付金集めが多かったんですね。私はやっぱり、お金を親たち、家庭からもらうっていうのはすごく抵抗があって「自分たちが生み出したいな」という思いがありました。でもそれだけではなかなか難しくて、お母さん方が自主的に「毎月いくらだったらわたしたち出せるだろうね」って20人のお母さんたちが話をして。3000円、1000円、5000円・・・なんていろいろ言ってるうちに「毎月2000円なら出せるよね」っていうことで、20人の人が社会福祉法人をとる2年前から積立を始めてくれて、それも資金にしました。一番最初は、元に戻りますと一番最初、だってやっぱり。いわゆる当時の指導員は採用しないといけない、そのお金も何もないわけだから。なので始めた母親たち3人がお金を出し合ったんですが。そのお金は「いずれ返そう」というふうにわたしは思って、結局返したんですね。そうしないといつまで経っても「あの人たちがお金を出してくれたからここは始まったんだ」「あの人たちが作ってくれたんだ」っていう、そういうふうな何か特別な関係になりたくなかったので。催促なしの無利子、無利子催促なしっていうかたちで。返せるときになったら返そうと。当時は150万ずつ出し合ったんですが、それを4~5年で返してもらえて。もうその返せたときにホッとしました、これで誰かが始めたんじゃない「誰かのお金で始めたんじゃない。みんなもうここで平らになるかな」と思って、すごくホッとしたのを覚えています。
そんな形でわらしべ舎は、ちょうど2001年ですから11年めに社会福祉法人格をとって、そしてそこから今度建築の設計とかいろいろ業者の方を人づてに個人で、母親が設計事務所を知っているわけでも全然なく、夫とかいろんな人の人づて人づてで設計事務所とか建築会社とか、そういうところにつてをたどって。そしてこの建物の設計と土地は仙台市が、他の条件が全部、仙台市が求めている条件が整えば「補助金を出します」って言ってくれたので結局土地は借りて、で補助金も出していただいて。それで2002年ですかね、の4月にオープンしたっていうのがわらしべの今ですね。
そこで最初は30人で。仙台市は当時「30人でスタートしなさい」というふうに言っていたので。で30人募集したら30人以上希望があったんですけれども、でも申し訳ないけど仙台市から30人と言われているんで、その中から30人の方に入っていただいて。無認可時代にいた方もこちらにほとんどが移られて。一人だけそれを機会に施設に入られた方がいたんですが、それ以外は皆さんこちらにいらしました。それプラス20人、若干減ったものですからそこに10何人の新しい。当時その年に、もうあの頃は支援学校って言ってたかな、支援学校を卒業した人たちが10何人加わって、で30名でスタートして。あれよあれよ、と言ってる間に今ちょうど50人になりました。
でも本当に親たちもみんな、何というか世の中ではつらい思いをしたり。やっぱりわたしもそうですけどチクッとすることもやっぱり言われることもあるんですよ。悪気はない、相手に。例えばわたしなんかも、娘が小っちゃいときは夫の会社の社宅にいたんです。で社宅に何年かいて、まあ初めてのマイホームを持ったときに。やっぱりみんなまだ若いしローンも、いわゆる初めて自分の家のローンを返し始める頃。やっぱりお金に汲々していた。
やっぱり同級生たちとか仙台でお友だちになった人たちもみんな、お金にみんな。マイホームを持ったりそれこそクルマを持ったりすればお金が足りない。そうすると、言われてしまったのが、わたしたちの払う税金ってみんなヒロコの(わたしの障がい者の娘なんですが)、ヒロコちゃんとこへ行くのよね、なんて言われたりしてね。そんなことは決してないんですけども。相手も悪気は全然ないんで、こう自分がやっぱり、みんな節約しなきゃいけない時代だったので、そういう言葉がつい出たんでしょうけども。まあ、そんなこと言われたってことは忘れられないな、と思うこともありました。
あとはもう一つやはり忘れられない、これも悪い意味で言ったんじゃないと思うんです、だけども「わたしだったら育てられない」とよく言われましたね。多分それは褒め言葉できっと言ってくれてるんだろうと思うんだけども。わたしだったら育てられないっていう言葉は、何か良くにだけは取れなかったですね、わたしの中では。やっぱり「自分の子どもは障がい児じゃなかった」と思っているのかな、っていうその思いと。何か雑多で、言った人のやっぱりその人の持っている性格ってのがあるから。それを言ったのは2人や3人、いやもうちょっといたかも知れませんね。やっぱり、この人はこっちの意味で言ってるんだな、と思いながら話を。言われた言葉っていうのはやっぱり自分の中にずっと残っていますね。
やっぱり障がい児の親っていうのは一生障がい児の親です。やっぱり障がい者の親の一番の悩みっていうのは自分が死んだ後子どもがやっぱり幸せに。固い言葉で言えば人権が守られてそして人に差別されることなく暮らしていってほしい。簡単に言えば「幸せに」と思うんですが。幸せに生きていってほしいと思うこと、「生きていってくれるかな」っていうふうに思うことが一番。
こういうことは絶対、本当は思っても言ってもいけないことなんだけど「子どもより1日でも早く死にたい」と思ってる親は多分、口には出さないけど世の中にいっぱいいるんだろうと思うんですね、やっぱり我が子を見届けてそして死にたい。我が子の最期をやっぱり、どこまでいってもやっぱり親っていうのは。順番から言ったら親は先に死ぬわけだから、だから。
やっぱり個人の力ってのは限りがあるし、個人個人では「幸せかどうか」なんていうのは本当に、誰かに委ねるしかないわけだけど。やっぱりそこにキチンと障がい者の制度、権利を守る権利条約とかに批准するとか。障がい者、仙台市も障がいのある人もない人も共に暮らしやすい条例というのを作ったんですが、その条例づくりにもわたし関わったんです。そういうものを作って、それには罰則を設けるっていうことはしない。罰則があるから守らなきゃいけない、ではなくてやっぱりそういうものを意識しながらも人間の気持ちとして「あっそういう条例がそういえばあったな」っていうことを、やっぱり想いでいてほしい。障がいがある人もない人も共に暮らしやすい街づくり仙台市条例という制度に守られるような子ども、社会の中に子どもを。やっぱりそういうふうにしていけば、親は「自分が死んだあとどうなったろう」って気持ちがいくらかは、いくらかは気持ちは楽になるのかなっていうふうには思いますね。そうすると、ご本人のため。先ほど学びとかあと経験値もそうだし、親御さんが本当に安心して生涯を終えられるというところに向かっていくことなんですね。
やっぱりその一つとしてまず親がいなくなれば場所がなくなってしまうわけだから。そのためにグループホームを作って、建物を作って、親代わりとなる世話人さんをお仕事としてやってもらいます。世話人さんっていうのは言ってみれば親がいなくなったあとの親代わりです。だからグループホームに入居させるにあたってよく、親は「どういう世話人さん?」って躊躇するんですよね。世話人さんがいい世話人さんなのか、それとも意地悪な世話人さんなのかとか気にするんですけれども。でも確かにそういうこともあるので、世話人さんはやっぱり裏も表もない人をお仕事としてしてもらおうと思っていて、そこの採用にはすごく気を使っていますね。
そうやって少しずつ上手く行くと。ちょうどわらしべ舎でもグループホーム、一番最初にグループホームに入ったのがちょうど娘なんですが。その頃はまだわらしべ舎にグループホームっていうのがなくって、他の社会福祉法人の運営しているグループホームに混ぜてもらって。で障がいが重い子なものですから、エッあのヒロコちゃんがお母さんから離れて暮らしていけるのかしら、っていろんな人が手土産を持って様子を見に来ました。でもねニコニコ暮らしているのを見て、そしてだんだんみんな「アッ何とかやっていけるんだな」と思ってね。ですからわらしべ舎には割合と障がいの重い方たちがグループホームに入居しているかなというふうに思いますね。
やっぱり親っていうのは本当に一生親でね。これが逆さまだったら本当に、これはまた悲しいことだけど。でもやっぱり何か一つ悩みを、「一つに絞れ」と言われたらやっぱり、自分がいなくなった後の子どもの生活。生き方が幸せであってほしいということがやっぱり究極の悩みだってことには変わりないと思います。それを露骨に、さっき言ったような言葉で言ってしまうような人も中にはいますけども。でも口に出す出さないは関わりなく、やはりそういう思いってのはみんなあるのかも知れませんね、そんな気がします。