「障がい者の親3人が集まってアパートでスタート」

発足のきっかけは障がい者である私の娘の行き場がなかったことになります。他にも行く作業所がなくて、それで学校には行っていたのに今度は学校を卒業したら在宅になる、という人がいっぱいいました。

「これはね、社会との接点がなくなってしまってこりゃ困るな」っていうふうに思いました。学校に相談しても「それはしょうがないんですよね、作業所が足りないんだから」っていう、もう進路担当の先生もそんな言い方をするんです。先生はいいわよね。学校を卒業させればいいんだし、そしてどこか空きがこうスッとあったらそこに1人送り込めばいいんだけど。でも障がい者の人たち、というか一般の人もそうだけど学校を卒業したらそこからが人生、限りはないわけだから。やっぱりその人に合った人生を送らせてあげたいって思いがありました。そしてあちこちへ実習にも行ったけども、まあ娘のことを言えば娘にも合うところがなかった。良いところとか悪いところっていうんじゃなくて娘に合うところがなかった、たぶん他の方もそうだろう、そうやって仕方なく在宅にいる人がいっぱいいるんだろうと思いました。

であれば、つまり絶対数が足りないんだからやはり作業所は作らざるを得ないだろう、ということで障がい者の親3人が集まって、青葉区の川平に民間の小さいアパートを借りてそこでスタートしたのが1990年なんですね。

始めたときには、自分の子どもたちはまだ高等部に通っていましたから誰もいない作業所でスタートしたんです。新聞やテレビで報道されて「親が作った」ということが珍しくて報道されて、見学者はいっぱい来るんですけれども、部屋が6畳間だし、家から座布団を持ってきて、家からテーブルやこたつを持ってきてというところでした。とても作業らしい雰囲気はなかったので、見学に来た人も「いやあ在宅でなくてどこか通いたいと思っては来たけども。ここが作業所とは思えない」っていうようなそんな感じで、結局誰も希望する人はいず。結局は我が子たちが高等部を卒業したあとに始めた、だから1年4カ月間は誰もいない作業所でした。

それで親はやっぱりいわゆる支援員、昔は指導員と言ったんですね、指導する人される人と人間の上下関係がハッキリしてて、指導員と。今は支援員って言いますよね、で〇〇先生と呼んで。今はそんな「先生」なんて言いませんけども、当時は先生という呼び方を作業所の指導員にしてました。私たちは「そういう思いは嫌だね」、社会に出たらみんな立場は違うけどみんな同じ人間として、できることでやっぱり社会に生きていこうよ、という思いが。そういう思いを作業所にもっていたので先生とは呼ばず、いわゆる当時の指導員を〇〇さんって呼び方で呼んでいました。そしてみんな、わたしも。当時は社会福祉法人ではなかったので。代表、任意団体なので誰か代表者にならなきゃいけないってことで代表だけ。みんな「代表」とか呼ぶ人もいなくみんながさん付けで、そんな感じで呼んでました。

 

「ただつくるだけでなく・・良いものをつくる」

そうこうしてるうちに何年か過ぎてちょっと希望者が増えてきた、やっぱり6畳間じゃ足りないので。その民間のアパートが6畳間の8部屋あるアパートだったので、8部屋をお家賃払いながら、ひと部屋ひと部屋と「ここを作業室にしよう」「ここを一応食事する場所にしよう」、「ここは一番最初から粉石けん作り」、廃油の粉石けん作りをしてたので、粉石けんの在庫スペースにしよう、ということでそんな感じで部屋を使っていました。

当初から、今もそうですが障がいのある人もやっぱり、お世話になるだけではなくて社会にやっぱり自分も混ざって生きていく。だから、わらしべ舎の理念は「地域で共に生きる」ということを理念にして、できる人ができることをやる。だから現在もものづくりをいっぱい、カレーとか石けんとか手工芸品とかをしていますけど。例えばカレーでも石けんでも、その福祉施設の関係の中で売るだけではなくて、広く一般のところで売りたいって思いがありました。

そういう販路開拓っていうのは障がい者の方には難しいんです、販路開拓は職員の仕事だけども「ものを作る」っていうことについては。確かに知的障がいというハンディがあるので1回教えても覚えてはくれないけども、それを5回でも10回でも伝えていけば、そして慣れていけばものは作れる。だから作るところは本人たちと支援員でやってもらおう、販路開拓は職員、支援員の仕事。というかたちでお互いに役割を持ちながらものを作っていきました。

そしてそれをやっぱり「良いものでありたい」。障がい者が作ったカレーです、障がい者が作った石けんです。障がい者が作ったこの、まあ手工芸品でもかわいいものもあります、でも「障がい者が作ったものです」って言い方はまったくしたことはないんですね。やっぱりこれは美味しいカレーで、汚れが落ちて環境にやさしい、廃油を使っていますので環境にやさしい石けん、っていうことで。「誰が作ってますか」と聞かれたら「ああ、障がいのある方々が作ってるんですよ」と言いますから。だから、そういう思いで作ってるんでパッケージのおもて、正面になるところに「障がい者が作りました、福祉施設が作りました」って文言はまったくないんですね。で製造元を見れば社会福祉法人と書いてあるから、アッこれは何か福祉の関係者が作ったんだなと、障がい者かなと思ってもらえばいいわけで。あえて、障がい者が作ったから「一生懸命買ってあげましょう」という思い、同情では長続きしないのでね。良いものを作ってそしてたくさんのお客さまに買っていただいて、そしてお給料をもらう。それがやっぱり障がい者にとっても生きがいです。

 

「利用者さんと職員とともに達成するやりがい」

それからやはり「やった」っていう達成感。わらしべでやっぱり大事にしたいっていうのは、とにかく来年で丸30年になるんですけども。必ず、何歳になっても人間は発達し続けるっていう。わたしよく発達保障と言うんですが、発達、伸びていく。「もうここでおしまい」っていうことはない。確かに赤ちゃんのときのように1歳のときまでには歩くなんて、あんなスピード感はないかも知れないけども、ドンドンと変わっていく。

だから、変わっていくからこそ支援をやる内容って、やっぱり「関わろう」と思うんだろうと思うんですね。変わっていく姿がすごく見える、昨日と今日とは変わらなくても半年経って1年経ってみたら「半年前はこうだったよね、ちょっとちょっと10年前さ、こう壁をガンガンしてたあの人、いま給食を普通に食べてるじゃん」ってね。長いスパンだけどもやっぱり変わっていっているのがもう、わたしたちも肌に染み付いているので。それがやっぱりの職員のやりがいなんだろうと思うんですね。

わらしべ舎ではとにかく本人たちの言い分を「まず聞きましょう」、言い分を聞いてそして。確かに知的障がいというハンディがあるので、社会的にやってダメなことはいっぱいあろうかと思うんですが、それをやっぱり。「ダメだよ」と言うときにもまず、それダメって言い方はしない。「うんどうしたの、それでどうなったの、へえそう。それでどんな気持ちした?」っていうふうな感じで話をまず順をして聞いて。そこから「だけどね、それって自分がされたら嫌でしょう、ねえ嫌だよね。自分がされて嫌なことは人にしてあげても、人がされたら嫌だと思わない?」なんていうことを言ったりしていいます。あと、なかなか言葉でのコミュニケーションがとれない人もいるんですね。そういう人にはやっぱり、叱るときでも褒めるときでもメリハリをつけて。叱るときにはそれこそ、しっかりと強い口調で「それはしてはいけないことです」、あと褒めるときは逆に、ニコニコして「よくやった」(拍手)っていう、それがやっぱり本人たちにすごくわかりやすい支援の仕方かなと思っています。